スポーツの奥義

"スポーツの奥義" って結局どういうモノなんですか。もっと簡単にわかりやすく教えてくれませんか。もしかしたら、そんなふうに早く結論だけを知りたいと思っている人も多いかもしれません。ただ残念ながら「はい、これがスポーツの奥義です」と、手のひらに乗せて差し出すような伝え方ができないのです。それは僕の力不足の面もありますが、スポーツの奥義が掴みどころのない "ウナギ" みたいだからなんです。

「これがスポーツの奥義です」と言葉を当てると、どうしてもスポーツの奥義の "本当の姿" がその言葉からスルッと抜け落ちてしまいます。どんな言葉を当てても、それをうまく捉えことができない。掴もうと思っても手からスルッと逃げてしまのです。こういうのは、その道の達人ならうまく掴むことができるんですよね。でもね、ウナギを直接掴んで「ハイ、どうぞ」って差し出されても、逆に困りませんか。「イヤイヤイヤ、桶に入れておいてよ」ってなるでしょ。ウナギは桶に入っている方が扱いやすい。桶に入っていれば「はい、どうぞ」って渡すことができる。別に桶じゃなくても、タライでもバケツでもいいんですけど、やっぱり桶に入っている方が風情があるという粋というか乙というか、雰囲気が良いじゃないですか。日本に古くからある伝統的な桶の方が。

 

オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』は、そんな掴みどころのない "スポーツの奥義" を伝えてくれる伝統的な本です。著者オイゲン・ヘリゲルはドイツの哲学者で、当時の東北帝国大学に招かれます。東洋的思想に惹かれていたヘリゲルは、禅を学ぶ入り口として、弓道部師範の阿波研造に師事し、弓道を学ぶ。その記録がこの『弓と禅』です。

ちょっと話は変わりますが、大学の授業で初めて弓道をやった時、自分の矢だけが唯一当たった、そんなことがありました。別に運動神経が優れていたとか、そういうことではないんですよ。なんせ当時の私はサッカー部の4軍ですから。能力は平々凡々。それでも何となく当たるような気がしていた。それは、この本と出会っていたからなんです。

「あなたは何をしなければならないかを考えてはいけません」
(オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』稲富栄治郎・上田武訳、福村出版、1981年、p.55)

師の言葉はうまく飲み込めない部分も多い。でも読んでいくと、同じように困惑しているヘリゲルと次第に同化していきます。ヘリゲルが師の言葉を理解できずにジタバタする時、やっぱりこちらも同じようにジダバタする。

「正しい射が正しい瞬間に起こらないのは、あなたがあなた自身から離れていないからです」
(前掲『弓と禅』、p.58) 

わかりそうで、わからない。混乱と疑問が頭の中をグルグルと渦巻いていく。するとこちらの気持ちを代弁するかのように、ヘリゲルが質問してくれます。

「いったい射というのはどうして放されることができましょうか、もし "私が" しなければ」
「"それ" が射るのです」
「"それ"とは誰ですか、何ですか」
(前掲『弓と禅』、p.92)

素晴らしいプレー、とても良い動き。そういうことができた時 "自分じゃないみたいだった"、そう感じることがあります。気持ち良く走っただけなのに、なぜか速く走れた。力を入れていないのに、すごい力が出た。"自分じゃない誰か" が身体を動かした時、なぜか上手くできる。

では、この "自分じゃない誰か" とはいったい誰なのか。そして、どうしたら現れるのか。

と、ついつい僕らはまた直接手で掴みにいってしまいます。でもそうすると、当然うまく掴むことができない。堂々巡りですね。もうお手上げです。いったい僕らには何ができるのか。と、なりますけど本当は大丈夫なんです。心配いりません。それはなぜかと言うと、あなたがこの謎を自分自身に抱え込んだ、まさにその時、あなたは "スポーツの奥義" に触れているんですから。

弓を構えるヒヨコ